2007年2月12日月曜日

民俗学の実践

「宮本常一を語る会」会員 呑田潤也
甘くない民俗調査

民俗学を知って、今年で6年になります。大学一年のとき、「民俗学概論」という講義があリ「民俗学とはなにか?」「民俗にはどういったものがあるのか?」など民俗学に関する基礎的な事を教えられました。この講義を受講して「これは楽しそうだ。もっと知リたい。」と思ったのが民俗と出会ったきっかけでした。そして大学2年のとき誘われるままに民俗学研究室に入リました。
それから今まで少ないながらもいくつかの民俗調査を行ってきました。ここではこれまで行ってきた調査のことを書いていこうと思っています。拙文ですがどうぞおつき合いの程をお願い致します。

民俗学の実践

僕が調査を初めてしたのは大学2年の夏、7月下旬頃でした。この時は民俗ではなく別の研究室の調査に参加しました。初めてだった事もあり、少しの不安はありましたが「調査って一体どんな事をするんだろうか。」と興味津々、喜び勇んで調査地へ向かいました。僕の頭の中では、地域の人達と楽しそうに話をし調査をしている光景がありありと浮かんでいました。
しかし現実というのは、全く異なるもので結果は散々なものでした。というのも調査の期間は丁度、農繁期まっただ中であったため農家の方と話すことなどできなかったのです。また家を訪ねても留守のところが多く、たとえ人がおられたところでも訪問販売員と間違えられ、家の人が出てこなかったり、ようやく出てこられたかと思うとお不動さんの様な形相で睨まれ、「話す事は何も無い!」と言われたりもしました。なぜこんなにも上手い具合にいかないのかと、いろいろ考えましたが、納得する答えは浮かはず、結局この調査で僕ができたことといえば数枚の田んぼの水の流れを調べることぐらいでした。調査直前に頭の中で描いていた「地域の人達と楽しそうに話をする」という理想は、夢のまた夢でおわり、しよつばなから「調査はそんなに甘くないぞ!!」ということをみっちりと教えられる結果となってしまいました。
(次号に続く)

宮本常一を語る会

宮本常一・名言・至言

「宮本常一を語る会」主幹世話人 嶋村初吉 (西日本新聞社)
~だれに命令せられるのでもなく、自らが自らに命令することのできる尊さを、この人たちは自分の仕事を通して学びとっているようである~
(「庶民の発見」講談社学術文庫、26頁)

農村

かつて農山漁村は貧しかったが、家並み、風景に美しさがあり、確とした人生観を持っている人がいた。
自発的に人生を磨いている姿を、宮本常一は広島・西志和(現、東広島市)の丸山かわるさんや名も知らぬ石工から見て取り、感動している。
農村の改善事業に30年間、励んだ丸山さん。仕事の傍ら村をよくしようと夜学に通い、農業の補習学校の先生もしながら、湿田を乾田にし、暗渠排水を手掛け、耕地整理に汗を流した。ついには請われて村長にもなった。村人は夏など家の戸を閉めないで寝ている。お互いを信じあい、安心できる村が存在する。それを支える人々の取り組みに、宮本常一は視線を注ぐ。
もう一人、西条高原(東広島市)で出会った石工。冬、寒さのなかで行う仕事の辛さ、子供にはこの仕事を継がせたくないという。
親方からの請負仕事では経費の関係で手を抜くこともあるが、そんな仕事をすると大雨の日には石垣が崩れぬかと夜も寝られない。
「結局、いい仕事をしておれば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついでくれる」。この言葉が、彼の人生観でもあった。この後に冒頭の言葉を、宮本常一は記した。

宮本常一を語る会

「伏流水」エッセイ (竹資源環境を考える会 野崎順一)

「忘れられた、長州船大工」~大賀大蔵前の記憶~
「宮本常一を語る会」世話人 野崎順一(竹資源環境を考える会)

大賀船大工最後の和船 中央が筆者の実父、右が大賀船大工
大賀船大工最後の和船
中央が筆者の実父、右が大賀船大工


まず、エッセイを書くにいたった経緯と略歴を、少し語りたいと思います。私が生まれ育ったところは、唐津湾の中央部に浮かぶ小さな島「高島」です。周囲3km、東西1.8km人口三百余り程、唐津城下から2.8km、連絡船で約十分位で島に胆く、離島とは思えない程、近場に位置するが幼いころは唐津の町が遠くに感じ、滅多に町に行くことはなかった。母や父が「明日町に連れて行くよ。」と言えば寝れないほど嬉しくて興奮したものです。島で生まれ18年間、島から巣立っで40年あまり、50歳を越えたころから不思議と郷里の島に思いはせる様になったのです。父母のこと兄弟、同級生、昔遊んだ所、喧嘩したこと、親父と漁に出、船の櫓を漕ぐ父の姿、母とした畑の芋、麦の収穫のこと、などなどどうしてか判らないが三つ子の魂百までといったところだろうか。最近島に行く「帰る」ことが多々あリ数年前から父母「祖先」が開いた畑、「みかん畑」「芋畑」今は小笹と雑草とで埋めつくされ放置され見るも無残な状態である。暇な時、少しずつ再開墾をし、150坪程の畑にみかんを植えたりしている。開墾をしてしみじみ感じたことは、昔の先祖、先人達のすばらしさ、偉いと思った。段々畑の竹薮から整然と並び積組み上げられた石垣が出てきた時、圧倒されたのです。大小の重い石を人力だけで組み積上げて作ったかと思うと「驚嘆」するばかりで現代の機械技術を使っても出来ないと思った。なぜなら機械を持込むことが出来ないからである。無用の長物でしかない。きっと先人達は英知と努力とを結集して協力しながら何年もかかって作っていたのだと思う。対馬の浅藻の梶田富五郎翁らが港を30年掛りで造った話が重なって昔の先人達の造った物を無にしてはならないと思い、少し少しではあるが畑の整備をしていこうと思っている。今、島は本業の漁業が低迷して若い人が島に残らない状態。疲弊の一途をたとっている。幼い頃は皆貧乏であったか漁は活気があった。人々のみなぎる力があふれていた様に思え、昔の方が子供も多く、明るい声が飛びかっていた。毎日忙しい日々の連続たった。人々も心暖かく安心感のある生活形態があり、昔の方が何にもなかったが生活面においても充実した豊かさがあった様に思える。今、島の人と話をしていても、なんとなく心に残ることもなく、淋しい感じがしてならないのは私だけだろうか。建築の仕事をするかたわら、自然、生活環境を考えるコミュニティー「竹資源環境を考える会」と称して竹山里山の保全のため整備をしながら竹炭工房を主宰し活動をしている。そんな中、樹庵の長岡さんと知り合い、環境、古民家再生、修復、島のこと等を話す機会が多々あり、2年前、宮本常一先生のことを知ったのです。正直、宮本民俗学とは無縁であったのですが、周防大島の出身で、百姓をしたり、離島振興法制定などに尽力されたことなど知り得ていく中で島出身であること、生活環境等相入れる感情を抱いたのです。平成17年1月31日宮本常一先生の命日の水仙忌に長岡さんに同行。周防大島に初めて行き宮本先生の墓前でお参リさせていただき、周防大島文化交流センターを見学。島の漁業農業の昔の道具又日常生活の民具等を見学、幼い頃の私の島の生活環境が余リにも酷似していたのです。展示場の中央に実物大の和船が目に飛び込んできました。と同時に昔父親と海に漁に行った船と同じ型をしていたものですから懐かしさのあまリ立ち止まって見入ってしまい、幼い頃の時空が、タイムスリップした感じでした。その展示の中で長州大工の歴史が紹介されていて長州大工の技術面の素晴らしさ、各地に出向き技術の伝承をしていった事が判り感銘を受けたのです。同時に、私の育った高島にいた船大工のことがめぐりめぐって思い出されたのです。山口県下関出身『大賀大蔵翁』私の幼い頃の記憶を語ってみたいと思ったのです。
(次号へ続く)

宮本常一を語る会

宮本学 この一冊

民俗学の旅 宮本常一
講談社学術文庫 会員 長野延子

民俗のぬくもリ豊かな島から、土の香と詩情と農民魂とを抱えて、好学の青年が巣立った。彼が勃興期の民俗学に誰かれ、その道に進んでいくのは自然の成り行きであったようだ。
宮本常一が生涯の師と仰いだ二人の民俗学者、柳田国男は彼に民俗学の方法を手ほどきし、学界に導き入れた。一方、渋沢敬三は、公私にわたる師匠として、具体的に活動の指針を与え、親身な庇護を惜しまなかった。「民俗学の旅」全17章のうち、第9~第16章の期間のほとんどを、宮本常一は渋沢敬三が提供するアチックミューゼアムの食客として起居した。ここを足場にして全国に隈なく足跡を印し、民俗学に独特の実績を積み上げていった。

第二次世界大戦の戦況急を告げ、宮本常一はアチックを引き揚げることになる。渋沢敬三は戦後に起こり得る国の文化と秩序の混乱を慮リ、宮本に重要な期待をかけた。全国の農民の現状を体験的にも民俗学的にも知っている君は、生き延びてその見聞を戦後につないでほしいと。
宮本は渋沢が自分に期待するものを初めて悟る。「学問としてでなく実生活に即して日本人とは何かを具体的に知っている自分は、戦後の日本の方向づけに必ず役立ち得る。そして同様な人物を一人でも多く養成することは急務で、かつ冷静に求められている」と。
彼の人物と知識や見識は方々から求められ、多彩な「伝書鳩」的活躍が始まる。(紙面の制約上割愛する)彼は「わしは周防大島の百姓じゃが」と語りかけては、農山村、離島や地域・文化活動の個人などに、各々が抱く課題に誇りと主体性を促して回った。

時代の趨勢で稔りを結ばなかったものも多いが、播いた種の芽は随所に生きている。底辺に生きる善き魂に、ペンの光を当てたりもした。最晩年、「進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めねば…」と、まさに今日的提言を遺している。昭和53年、四半世紀余昔である。

民俗学の旅 宮本常一

宮本常一を語る会

宮本常一とわたし(資料データーの大切さ)

資料データーの大切さを教えてくれた先生
会顧問 鈴木勇次 (長崎ウエスレヤン大学教授)

宮本常一先生が昭和56年1月30日に死去されてまもなく26年が経つが、私が初めて宮本常一先生に会ってからだと36年が経過したことになる。昭和45 年、東京・晴海の日本離島センターで開催の全国離島青年会議で助言者としてご出席いただいたときである。それまでは宮本常一先生のことは全く存じていなかった。それ以上に島のことは全く知らなかったと言ってもよい。ところで、私にとっての宮本先生は、いわゆる恩師とか指導者といった感じのする先生ではなかった。その当時の宮本先生は、全国離島振興協議会顧問の肩書きであったが、離島サイドから見れば「事務局」の一員になってしまうわけて、私自身も内部の一員と見ていたような気がする。事務局に入ってくるときはいつも片手を半分挙げて「イヨ!というのが口癖であった。
私が日本離島センターに入ってすぐに担当したのは「離島統計年報」のデーター、機関誌「しま」のデーター編集、そして全国離島青年会議の企画運営であった。因みにこれらは皆宮本先生の発案による事業である。当時、「しま」では、既に宮本先生が連載「離島振興の諸問題」の終章を執筆されていた。私は、次号の企画案を幹事会に提出したが内容が堅すぎた。そこで改めて宮本先生に執筆をお願いした。昭和45年当時のわが国は、大阪万博が開催され、旅行ブームが一段と進んだ時代であり、離島でも観光ブームの兆しが見え始めていた。「宮本先生、恐縮ですが、次号に島民のために観光を執筆していただけませんか。」と、おそるおそる依頼すると、数日後には、「書いたよ、これでいいかい。」と、まるで字数を勘定したかの如くに専用の原稿用紙に依頼通りの字数でかいてきてくださった。早速、校閲に入るが手を加えるところがない。宮本先生には失礼であったか、原稿に記されているデーターの間違い探しをした。しかし、執筆原稿に使用されている各種データーは正確そのものであっだ。喋るのと同じ速さで執筆される宮本先生はデーターをどの様にして確認していたのであろうか。きっと全て記憶されていたのであろう、神業である。
私は、宮本先生から「島に行くときはデーターを持って行きなさい。」としばしば注意されたものである。また、「一度関わった島は、目を離さず、必ず注意して見守るように。」とも言われた。日本離島センターに入ったお陰で、仕事とはいえ公費で島廻りができる。同じ島ばかりでなくできるだけ多くの島を回ってみたいとの気持ちが勝っていた。宮本常一先生は口には出さなかったが、きっと「鈴木よ、それで島がわかるのか。」と思っておられたに違いない。もっと先生の言うことを聞いて素直に行動すべきだったのだろうか。近年、データー研究者のみならず多くの方々が宮本常一先生を「学ぶ」ようになってきている。先生の著書は言うに及ばず、宮本先生について書かれた多くの著書、写真集、報告書なども読み込まれている方が多過ぎるほど多い。そうした方々や、また立派な評論をされる方を見ると、私などあまりの無知のため隠れたくなるほどであり、宮本先生の何たるかを語る資格などないものである。でも、関わったのが現実なのであるから、それはそれとして、改めてこれからは宮本常一先生を語る多くの皆様と全く同じ立場で、関心を高めてゆきたいと思う。

宮本常一を語る会

「宮本常一を語る会」発足

「宮本常一を語る会」会報「伏流水」編集の基本
  1. 宮本常一の志とまなざしを学び語り継ぎ、励まし合い、それぞれの立場で実践する。
  2. 周防大島を核として、各地の関係団体と相互に交流し新たな輪を広げる。
「宮本常一を語る会」発足

「宮本常一を語る会」発足
西日本各地から60人が出席 2006.4.29
休憩時に撮影したため、全員そろわないまま残念


離島や僻地振興に情熱を注いだ民俗学者 宮本常一(1907~81)の志を継承し、地域振興や人づくリなど実践に活かそうとする会が福岡県二丈町鹿家のギャラリー樹庵で発足した。
2006年4月29日(みどりの日)午後2時から始まった会合には神戸・広島・周防大島・下関・福岡・対馬・諫早など西日本各地から約60名が参加した。
初めに夫人宮本アサ子さんからの祝電が披露された後、日本島嶼学会副会長 鈴木勇次さん(長崎ウエスレヤン大学教授)や周防大島町議会議長 新山玄雄さん(泊清寺住職)が、生前宮本から受けた教えや思い出を披露した。

山口、周防大島方面から
遠路、周防大島方面から

宮本常一の足跡と生涯を編集したビデオを鑑賞したほか、「宮本常一先生の本を読む会」(高田壽太郎会長)「民俗学者宮本常一の足跡を巡る会」(小松津代志 代表)2団体から周防大島と対馬での活動が報告された。
出席者全員の自己紹介と熱い思いが語られ、記念コンサート(高巣まい子さんの歌など)が続いた。

高巣まい子さんの歌
高巣まい子さんの歌

宮本常一を語る会