2007年2月12日月曜日

宮本常一とわたし(資料データーの大切さ)

資料データーの大切さを教えてくれた先生
会顧問 鈴木勇次 (長崎ウエスレヤン大学教授)

宮本常一先生が昭和56年1月30日に死去されてまもなく26年が経つが、私が初めて宮本常一先生に会ってからだと36年が経過したことになる。昭和45 年、東京・晴海の日本離島センターで開催の全国離島青年会議で助言者としてご出席いただいたときである。それまでは宮本常一先生のことは全く存じていなかった。それ以上に島のことは全く知らなかったと言ってもよい。ところで、私にとっての宮本先生は、いわゆる恩師とか指導者といった感じのする先生ではなかった。その当時の宮本先生は、全国離島振興協議会顧問の肩書きであったが、離島サイドから見れば「事務局」の一員になってしまうわけて、私自身も内部の一員と見ていたような気がする。事務局に入ってくるときはいつも片手を半分挙げて「イヨ!というのが口癖であった。
私が日本離島センターに入ってすぐに担当したのは「離島統計年報」のデーター、機関誌「しま」のデーター編集、そして全国離島青年会議の企画運営であった。因みにこれらは皆宮本先生の発案による事業である。当時、「しま」では、既に宮本先生が連載「離島振興の諸問題」の終章を執筆されていた。私は、次号の企画案を幹事会に提出したが内容が堅すぎた。そこで改めて宮本先生に執筆をお願いした。昭和45年当時のわが国は、大阪万博が開催され、旅行ブームが一段と進んだ時代であり、離島でも観光ブームの兆しが見え始めていた。「宮本先生、恐縮ですが、次号に島民のために観光を執筆していただけませんか。」と、おそるおそる依頼すると、数日後には、「書いたよ、これでいいかい。」と、まるで字数を勘定したかの如くに専用の原稿用紙に依頼通りの字数でかいてきてくださった。早速、校閲に入るが手を加えるところがない。宮本先生には失礼であったか、原稿に記されているデーターの間違い探しをした。しかし、執筆原稿に使用されている各種データーは正確そのものであっだ。喋るのと同じ速さで執筆される宮本先生はデーターをどの様にして確認していたのであろうか。きっと全て記憶されていたのであろう、神業である。
私は、宮本先生から「島に行くときはデーターを持って行きなさい。」としばしば注意されたものである。また、「一度関わった島は、目を離さず、必ず注意して見守るように。」とも言われた。日本離島センターに入ったお陰で、仕事とはいえ公費で島廻りができる。同じ島ばかりでなくできるだけ多くの島を回ってみたいとの気持ちが勝っていた。宮本常一先生は口には出さなかったが、きっと「鈴木よ、それで島がわかるのか。」と思っておられたに違いない。もっと先生の言うことを聞いて素直に行動すべきだったのだろうか。近年、データー研究者のみならず多くの方々が宮本常一先生を「学ぶ」ようになってきている。先生の著書は言うに及ばず、宮本先生について書かれた多くの著書、写真集、報告書なども読み込まれている方が多過ぎるほど多い。そうした方々や、また立派な評論をされる方を見ると、私などあまりの無知のため隠れたくなるほどであり、宮本先生の何たるかを語る資格などないものである。でも、関わったのが現実なのであるから、それはそれとして、改めてこれからは宮本常一先生を語る多くの皆様と全く同じ立場で、関心を高めてゆきたいと思う。

宮本常一を語る会

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