2007年2月12日月曜日

「伏流水」エッセイ (竹資源環境を考える会 野崎順一)

「忘れられた、長州船大工」~大賀大蔵前の記憶~
「宮本常一を語る会」世話人 野崎順一(竹資源環境を考える会)

大賀船大工最後の和船 中央が筆者の実父、右が大賀船大工
大賀船大工最後の和船
中央が筆者の実父、右が大賀船大工


まず、エッセイを書くにいたった経緯と略歴を、少し語りたいと思います。私が生まれ育ったところは、唐津湾の中央部に浮かぶ小さな島「高島」です。周囲3km、東西1.8km人口三百余り程、唐津城下から2.8km、連絡船で約十分位で島に胆く、離島とは思えない程、近場に位置するが幼いころは唐津の町が遠くに感じ、滅多に町に行くことはなかった。母や父が「明日町に連れて行くよ。」と言えば寝れないほど嬉しくて興奮したものです。島で生まれ18年間、島から巣立っで40年あまり、50歳を越えたころから不思議と郷里の島に思いはせる様になったのです。父母のこと兄弟、同級生、昔遊んだ所、喧嘩したこと、親父と漁に出、船の櫓を漕ぐ父の姿、母とした畑の芋、麦の収穫のこと、などなどどうしてか判らないが三つ子の魂百までといったところだろうか。最近島に行く「帰る」ことが多々あリ数年前から父母「祖先」が開いた畑、「みかん畑」「芋畑」今は小笹と雑草とで埋めつくされ放置され見るも無残な状態である。暇な時、少しずつ再開墾をし、150坪程の畑にみかんを植えたりしている。開墾をしてしみじみ感じたことは、昔の先祖、先人達のすばらしさ、偉いと思った。段々畑の竹薮から整然と並び積組み上げられた石垣が出てきた時、圧倒されたのです。大小の重い石を人力だけで組み積上げて作ったかと思うと「驚嘆」するばかりで現代の機械技術を使っても出来ないと思った。なぜなら機械を持込むことが出来ないからである。無用の長物でしかない。きっと先人達は英知と努力とを結集して協力しながら何年もかかって作っていたのだと思う。対馬の浅藻の梶田富五郎翁らが港を30年掛りで造った話が重なって昔の先人達の造った物を無にしてはならないと思い、少し少しではあるが畑の整備をしていこうと思っている。今、島は本業の漁業が低迷して若い人が島に残らない状態。疲弊の一途をたとっている。幼い頃は皆貧乏であったか漁は活気があった。人々のみなぎる力があふれていた様に思え、昔の方が子供も多く、明るい声が飛びかっていた。毎日忙しい日々の連続たった。人々も心暖かく安心感のある生活形態があり、昔の方が何にもなかったが生活面においても充実した豊かさがあった様に思える。今、島の人と話をしていても、なんとなく心に残ることもなく、淋しい感じがしてならないのは私だけだろうか。建築の仕事をするかたわら、自然、生活環境を考えるコミュニティー「竹資源環境を考える会」と称して竹山里山の保全のため整備をしながら竹炭工房を主宰し活動をしている。そんな中、樹庵の長岡さんと知り合い、環境、古民家再生、修復、島のこと等を話す機会が多々あり、2年前、宮本常一先生のことを知ったのです。正直、宮本民俗学とは無縁であったのですが、周防大島の出身で、百姓をしたり、離島振興法制定などに尽力されたことなど知り得ていく中で島出身であること、生活環境等相入れる感情を抱いたのです。平成17年1月31日宮本常一先生の命日の水仙忌に長岡さんに同行。周防大島に初めて行き宮本先生の墓前でお参リさせていただき、周防大島文化交流センターを見学。島の漁業農業の昔の道具又日常生活の民具等を見学、幼い頃の私の島の生活環境が余リにも酷似していたのです。展示場の中央に実物大の和船が目に飛び込んできました。と同時に昔父親と海に漁に行った船と同じ型をしていたものですから懐かしさのあまリ立ち止まって見入ってしまい、幼い頃の時空が、タイムスリップした感じでした。その展示の中で長州大工の歴史が紹介されていて長州大工の技術面の素晴らしさ、各地に出向き技術の伝承をしていった事が判り感銘を受けたのです。同時に、私の育った高島にいた船大工のことがめぐりめぐって思い出されたのです。山口県下関出身『大賀大蔵翁』私の幼い頃の記憶を語ってみたいと思ったのです。
(次号へ続く)

宮本常一を語る会

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