2007年2月12日月曜日

宮本学 この一冊

民俗学の旅 宮本常一
講談社学術文庫 会員 長野延子

民俗のぬくもリ豊かな島から、土の香と詩情と農民魂とを抱えて、好学の青年が巣立った。彼が勃興期の民俗学に誰かれ、その道に進んでいくのは自然の成り行きであったようだ。
宮本常一が生涯の師と仰いだ二人の民俗学者、柳田国男は彼に民俗学の方法を手ほどきし、学界に導き入れた。一方、渋沢敬三は、公私にわたる師匠として、具体的に活動の指針を与え、親身な庇護を惜しまなかった。「民俗学の旅」全17章のうち、第9~第16章の期間のほとんどを、宮本常一は渋沢敬三が提供するアチックミューゼアムの食客として起居した。ここを足場にして全国に隈なく足跡を印し、民俗学に独特の実績を積み上げていった。

第二次世界大戦の戦況急を告げ、宮本常一はアチックを引き揚げることになる。渋沢敬三は戦後に起こり得る国の文化と秩序の混乱を慮リ、宮本に重要な期待をかけた。全国の農民の現状を体験的にも民俗学的にも知っている君は、生き延びてその見聞を戦後につないでほしいと。
宮本は渋沢が自分に期待するものを初めて悟る。「学問としてでなく実生活に即して日本人とは何かを具体的に知っている自分は、戦後の日本の方向づけに必ず役立ち得る。そして同様な人物を一人でも多く養成することは急務で、かつ冷静に求められている」と。
彼の人物と知識や見識は方々から求められ、多彩な「伝書鳩」的活躍が始まる。(紙面の制約上割愛する)彼は「わしは周防大島の百姓じゃが」と語りかけては、農山村、離島や地域・文化活動の個人などに、各々が抱く課題に誇りと主体性を促して回った。

時代の趨勢で稔りを結ばなかったものも多いが、播いた種の芽は随所に生きている。底辺に生きる善き魂に、ペンの光を当てたりもした。最晩年、「進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めねば…」と、まさに今日的提言を遺している。昭和53年、四半世紀余昔である。

民俗学の旅 宮本常一

宮本常一を語る会

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